ビタミンFを飲んで [本]
台湾に住み始めてから読書の量が減りました。
理由は二つあって、一つはやはり日本の書籍が本国より割高なこと。
台北には紀伊国屋書店があるので、新刊の本でも手に入れることができますが、やはり税金がかかって2、3割高いのです。いくら本が好きだからといっても、物価が全然ちがう国で暮らす以上、そこでの消費感覚を身につけなければなりません。
そしてもう一つの理由は通勤手段が変わったこと。
日本で働いていた時は1時間、2時間かけての通勤など当たり前だったので、この時間が読書にあてられました。なかなか座席に座って本を読むというのは難しかったものの、学生時代からその時間はわたしにとって大切なものでした。
それが今はなんとバイク通勤!
原付のスクーターで15分。しかもドアtoドアなのです。
『便利にこしたことはないじゃないか』と言われればそれまでですが、かつてあれほど満員電車の通勤がいやでいやで仕方なかったのに、時々それが懐かしくすら思えるのです。疲れた体と頭を何とか支えながら、あの時はいろいろなことを考えていたような気がする。今はそう思えるのです。
はたしてその時、生産的なことを考えていたのかどうか、それはわかりません。電車の中にいるさまざまな人々をぼんやり眺めながら、自分を奮い立たせたり、おとしめたり...無駄な時間とは言い捨てられない、何かと格闘している時間だったような気がします。
重松清さんは、同じ時代同じ社会の空気を吸いながらそこに生きる人々を、作品の中で丁寧に描いている作家です。その中でも特にこの作品は素晴らしいと思います。つらい現実、逃げ出したいことに果敢に立ち向かう勇ましい人たちが主人公になっているわけではありません。そこに描かれる人々は、人間関係にも仕事(学校)にも疲れていて、あまり元気がない。それでも今抱えている疑問の一つ一つと向き合い、「これでいいのか?」と自問するのです。
そこからすべてが始まる。
そこからしか何も始まらない。
近頃はやりの「前向きに」などという言葉をお題目のようにして、
自分自身に暗示をかけるのは嫌いです。
物事をしっかり見つめたい。
そして、どうしようもなく不安になって身動きできなくなった時、Family,Father,Friend,Fight,Fragile,FortuneというビタミンFを飲んで、新しい朝を元気に迎えたいと思うのです。
(ちょっと力入れすぎたかな...)
ちょっと、顔、こわかった...
生きることの業 車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』 [本]
すでに三度読み返した小説です。
生々しい物語の展開と、言葉を彫り刻むような文章に、何度も打ちのめされ続けています。
小説とは、書くこととは何なのか。
いつもそこに思いを馳せますが、答えは容易に出てきません。だからそれを探して書き続けるのだ、というのはよく聞くセリフです。しかし、それ以前に書かずにはいられない、書くことでしか世の中とまっとうに向き合えないという作家の差し迫った事情があります。その過程で、時に自堕落になる作家も多いし、未熟な自分に甘え続ける作家も多いでしょう。それでも最後まであがきながら、逃げずに不器用な自分と闘っている作家に強く心惹かれます。
この小説に描かれている人々は、社会の暗部に息をひそめながら生きている人ばかりです。
舞台となる尼崎という街。
「土地の人」が「アマ」というこの土地、そこに流れ着いた人々の群れ。
人々の心象風景と街の風景の明暗が、微妙に絡まっていく様がリアルに伝わってきます。
重い読後感 [本]
自分と同世代の作家に柳美里と角田光代という女性の作家がいる。
どちらも気になる作家で、新作・旧作を問わず乱読している。
二人の作家の間に共通点があるのかどうかわからないが、
読者として感じるのは、どちらの作品も読後に「ああ...」という重い余韻が後を引くことだろうか。
決してさわやかな気持ちにはならない。
もともと、さわやかな読後感を求めていないので、こちらとしては一向に構わない。
本を読んでいる間は作品の中に入り込みたいし、全身で受け止められる作品と出会うことを願っているので、この重い余韻は自分にとってマイナスに作用することもない。
柳美里の『声 命四部作 第四幕』をようやく読み終えた。
林真理子をして、「書くことで落とし前をつけている」と言わせる作家である。
現実と丸裸で向き合う柳美里の凄さ。書くことへの執念。
ひとつひとつの言葉が痛いほどに読者の内面にも突き刺さってくる。
作品を書き終えて筆を置く瞬間の作者のため息が伝わってくるようで、こちらもため息をつくしかなかった。
角田光代の本も最近読み終えた。
『対岸の彼女』を読んだ後、『真昼の花』『空中庭園』『夜かかる虹』と立て続けに読んでいる。
柳美里とちがって、角田光代が向き合う対象は同性の女性であることが多い。
それもかなり厄介な相手として描かれている。
同性であるからこそ分かり合えるという考えはここでは成り立たない。
相手を理解できるからこそ、近づくことを拒もうとする姿勢とでも言うべきか。
反対に男性は最初から違うものとして扱われているのか、軽く描かれることが多い。
わたしは男性であるが、むしろ角田光代が向き合う女性たちに興味がいく。
なぜだろうか。
やはりそこに、人とのコミュニケーションの難しさとその中で生きていくという、誰もが背負わなければいけない命題があるからなのだろう。
ラーとタンゲくん [本]
一度は「タンゲ」と名付けようかと思ったことも...
タンゲとは、時代劇映画の主人公で有名な剣客・丹下左膳からとった名前。
古くは大河内伝次郎が演じたものが有名で、最近では中村獅童なんかがやってます。
ある一家に、ある日当たり前のように住みつき始めた、ちょっと変わったネコの話です。
子どもの頃、ネコを眺めて一日を過ごしたことがある人なら、一度はこんな想像をめぐらしたことがあるのでは。荒々しいタッチと色彩がとてもユニークです。
目だけでなく、柄も、大きくて立派な体も、ラーと同じ。
ラーと出会う前にこの絵本が家にあったことを不思議に思います。
山本周五郎「樅の木は残った」 [本]
かなり以前から読みたいと思っていた一作。
新潮文庫の上下二冊(現在は上中下三冊)を買ったものの、「長編大作を読むには心の余裕が必要」とやり過ごし、1年が過ぎようとしていた時に一気に読んだ。ああ、すごい小説だ!
史実は誰も知らぬところ。
作家は史実を伝えるのが使命ではなく、ひとつのエピソードから普遍的なテーマに挑むことが本領なのだろう。頭の固い自称「歴史学者」はつまらぬ批判をなさらぬように(ちなみにわたしは史学科卒業です)。
昭和から平成という時代の世相を重ねて読むのも一興だろう。
しかし、ここに描かれている原田甲斐の人物像は、生(なま)の人間の尊さ、悲しさを永遠に謳歌し続けるに違いない。そこには時代の制約などないのだ。
「『新さん』を読む」 人は笑いに保守的なもの [本]
先日、日本から「ミスター・ビーン」のVHSを持ち帰り、毎晩これを見ては大笑いしたり、ひきつり笑いしたりしている。幸いルームメートも気に入り、一緒に鑑賞している。「幸い」というのは、以前日本でビーンが流行し始めた頃、何人かで一緒に見たのだが、そのうちの一人が途中で、「もうがまんできない。こういうのは苦手だ。」と言って憤然と席を立とうとしたことがあるからだ。
「新さん」にもビーンに通じる同じ笑いのツボを感じ、いたく気に入って繰り返し読んでいる。どうでもいいことへのこだわり、思い込み。こういうものになぜか惹かれてしまう。しかしきっと、「これはちょっと…」という人も多いのだろう。「落語は上方しか聞かない」という類のものとは何かちょっと違う、笑いの根源に迫るものがそこにあるのか…。笑いは時にその人の道徳観を問う場合もあるし、単純に感覚的にだけ受け止めるものではなさそうだ。
中華圏においては香港の周星馳が笑いのスーパースターであり、日本でもヒットした「小林サッカー」や「食神」などは若者のバイブルともいうべきものだ(特に「食神」は劇中のセリフを諳んじられる若者が多い!)。ところが、わたしにはこの「笑い」がわからないのだ。確かにおもしろい。しかしそれ以上に何かうけつけないものを覚えて、思いっきり笑えない。それが何なのか、あまりよく考えないのだが、もしかしたら理解から意識的に逃げているのかもしれない。
「笑いは万国共通」という言葉もよく聞くのだが、いやどうして笑いとはなかなかに保守的なものである、と思うこの頃である。