「『新さん』を読む」 人は笑いに保守的なもの [本]
先日、日本から「ミスター・ビーン」のVHSを持ち帰り、毎晩これを見ては大笑いしたり、ひきつり笑いしたりしている。幸いルームメートも気に入り、一緒に鑑賞している。「幸い」というのは、以前日本でビーンが流行し始めた頃、何人かで一緒に見たのだが、そのうちの一人が途中で、「もうがまんできない。こういうのは苦手だ。」と言って憤然と席を立とうとしたことがあるからだ。
「新さん」にもビーンに通じる同じ笑いのツボを感じ、いたく気に入って繰り返し読んでいる。どうでもいいことへのこだわり、思い込み。こういうものになぜか惹かれてしまう。しかしきっと、「これはちょっと…」という人も多いのだろう。「落語は上方しか聞かない」という類のものとは何かちょっと違う、笑いの根源に迫るものがそこにあるのか…。笑いは時にその人の道徳観を問う場合もあるし、単純に感覚的にだけ受け止めるものではなさそうだ。
中華圏においては香港の周星馳が笑いのスーパースターであり、日本でもヒットした「小林サッカー」や「食神」などは若者のバイブルともいうべきものだ(特に「食神」は劇中のセリフを諳んじられる若者が多い!)。ところが、わたしにはこの「笑い」がわからないのだ。確かにおもしろい。しかしそれ以上に何かうけつけないものを覚えて、思いっきり笑えない。それが何なのか、あまりよく考えないのだが、もしかしたら理解から意識的に逃げているのかもしれない。
「笑いは万国共通」という言葉もよく聞くのだが、いやどうして笑いとはなかなかに保守的なものである、と思うこの頃である。
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